またね。

平穏な日々をぶち壊すような何かが欲しかった。とでも言えばいいだろうか。ほんの小さな遊び。愚かで艶めかしい戯れ。月に一度きりのささやかな幻。官能小説などでは到底敵わないようなリアル。様々な男との一晩は、とても刺激的で愉しかった。世の中には色んな男が生きていることを知った。写真家、画家、舞台役者、フリーター、平凡な大学生、バンドマン、占い師、文筆家、妻帯者……。男たちを、私は決まって自分の部屋に呼んだ。誰もが二つ返事でやって来た。私はまず酒と料理を振る舞い、それらがひと段落すると頰にキスをした。まるでそれがスイッチであったかのように、カチンと音が鳴るように、男たちは私を抱いた。キスだけに一時間をかけるような男もいれば、すぐに繋がろうとする男、まるで独裁者の様に乱暴な男がいたと思えば優しすぎるほどのセックスをする男もいた。

私は一度寝た男とは寝ないと決めている。別れ際の挨拶は決まってさようならだった。男たちの中にはまたねと言う者もいたが、私はそれを押しやり、さよならよとだけ言って別れて来た。

別れて来たのに。
私は今、三度目のセックスをしようとしている。相手は私とのセックスが初めてのセックスだったと言う、冴えないフリーターだった。
特に顔が好みなわけでも、金を持っているわけでも、さしてセックスの相性がいいわけでもない。ただ別れ際のさようならが、何故か、言えなかったのだ。
「あの日、」
私が言いかけると、初めて会った日?と男は聞き返してきた。
「ええ、私あの日あなたにさようならが言えなかったの。どうしてだと思う?」
私は自分では分からない問題を相手に投げかけた。
「さあ、分からないな。」
「そうよね。分からない。」
私たちは黙った。お互いに何故なのか考えている気がした。それでも答えは出ないだろう。
「運命があるとすれば、」
「運命なんて存在しないわよ。」
男が夢めいたことを言おうとしたので、私は遮る様にそう言った。運命などとうの昔に否定した。この世は必然でできている。
「仮の話さ。」
「じゃあ仮に運命があるとすれば、なんだと言うの?」
「前世が生き別れの兄妹だったとか。」
私は思わず笑ってしまう。
「だとしたら、兄妹とセックスする趣味はないわ。」
男も笑う。私たちは笑い合って、そっとキスをした。

情事を終え、私は悩んでいた。眠る男の顔は健やかだ。私は自分の遊びに忠実でいたかった。しかし今その忠誠心は乱れている。このまま流されてしまうのは恐いことだった。反面、平穏な日々ではなくもっと柔らかくて温かい時間を過ごすチャンスを、私がまだ見たことも感じたこともないそれらを、逃すような気がしていた。どちらを取るべきか、どちらを取りたいのか、しかし私にはさっぱり分からなかった。

翌朝、いつの間にか眠っていた私は香ばしい匂いに目が覚めた。
「おはよう。」
キッチンから男の声がして、一切を思い出す。
「何しているの?」
寝ぼけ眼でそういうと、目の前のテーブルに男が皿を並べ始めた。
「何って、朝メシ。食べない?」
きつね色に焼けたトースト、付け合わせのソーセージと目玉焼き、横にはコーヒーが並んだ。
「食べる。」
よくよく聞くと、男は料理が好きだそうで、こんな簡単なものしか用意できなくてすまないと謝った。

私は誰かに朝食を作ってもらったことがない。母親は昔から忙しい人で、朝食をはじめ自分のことは自分でやる。それがルールだった。
「こんな風に起きたら朝食が出来ているなんて初めてよ。ありがとう。」
私はそう言い目の前のものを噛みしめるように味わいながら食べ終えた。珈琲を口にする時、ああこういうことなのかもしれない、と思った。こういう生温いお湯の中にいるような、いつまでも浸かっていられるような安心感。ホッと一息つける感覚。私が初めて味わうもの。私はこれらを取り逃そうとしているのだ。

「そろそろ帰るよ。」
「ええ、気をつけて。」
朝食を食べ終え、リビングで少し談笑したあと、男はおもむろに立ち上がり着てきた上着を手に取った。私は迷った。「さようなら」か、「またね」か。
「朝ごはん、美味しかったわ。」
「それは何より。」
男が靴を履き玄関のドアノブに手をかける。
「ねえ、」
男が振り返った。私は私の口が勝手に動いていくのを止められなかった。
「またね。」
「ああ、また来るよ。」
玄関の扉が閉まり、私は立ち尽くす。意外だったのだ。自分でも、自分の選択が。サッと踵を返して私はリビングに戻った。

テーブルの上には珈琲の残りかけたカップが一つある。私はそれをぐいと飲み干し、床の上に座り込む。本当にこれで良かったのかは分からない。けれど私は生温いお湯の安心感を知ってしまった。この選択が一生に一度の選択でもあるまい。私にはいつだって「さようなら」がついている。ならば違う遊びを始めよう。

朗らかで柔らかな、陽の光のような遊びを。