さようならの時

夜中のコンビニには退廃的な空気がある、と、彼女は言った。
「タイハイテキ?」
僕が聞き返すと、彼女は笑って、
「分からなくていいことよ。」
と言った。彼女はとても頭がいい。しかし、そのせいで病気になってしまったと、彼女は言っていた。

 

僕と彼女が出会ったのは二ヶ月前のことで、彼女が僕の家に住み着いたのは一ヶ月ほど前のことだった。彼女はまるでそうするのが当たり前のように、僕の部屋で生活を始めた。僕は拒まなかった。一人きりの部屋は寂しかったし、僕は彼女に惹かれていたから。

 

彼女はいつもワンピースを着ていた。理由を尋ねると、「一番踊りやすいから。」と答えた。僕ははじめ首を傾げてみせたけれど、彼女はにこにこ笑っているだけだった。一緒に生活し始めてから、彼女は時々その華奢な身体でくるくると回ってみせたり、ステップを踏みながら鼻唄を歌ってみせたりした。なるほどこのことだったのかと、僕は納得した。しかしそこで、踊るのが好きなの?と聞くと、彼女はしおしおと大人しくなり、「好きなわけじゃないわ。」と妙に悲しそうな顔で言った。それ以来、僕は彼女がくるくると回ってみせたり踊りながら鼻唄を歌ってみせたりしても、何も言わないことにした。あの時の悲しそうな表情が、僕まで悲しくさせたから。

 

彼女はほとんど僕の家から一人で外出しない。一人で外へ出るのは病院へ行く時だけだった。彼女は病院のことを「監獄みたい」だと言う。僕にはその意味がよく分からなかったけれど、彼女が好き好んでその監獄へ出かけて行くわけでないことは分かっていた。一度、一緒に行こうか?と尋ねたことがあったが、彼女は大きく首を横に振り、「貴方みたいな人が行くところじゃないわ。」と断られてしまった。

 

彼女の病気はなかなか完治が難しいらしく、「私が私でなくならない限り治ることはないの。」と彼女は言っていた。そしてこうも付け加えた。
「私は例え何度監獄へ通うことになろうとも、今の私のままでいたい。」
その時の彼女の顔は、固い決意みたいなものに溢れていて、僕は強い衝撃を受けた。そしてそんな風に言える彼女のことを、綺麗だと思った。

 

数ヶ月、僕らは寝食を共にした。
彼女が消えたのは、秋が来て冬になろうとする頃だった。僕がアルバイトから帰宅すると、いつも迎えてくれた彼女の姿がなかった。病院へ行く日ではないし散歩にでもでてるのだろうかと、呑気に彼女の帰りを待っていた。彼女が一人で外に出ることなどないのに。彼女は日が暮れても帰っては来なかった。何かあったのかと不安になって、何度も窓の外を確認したが、彼女の姿は見えない。彼女は携帯電話を持っていないので、連絡することもできなかった。堪らず僕は外へ飛び出した。

 

近所をくまなく探し回る。しかし本屋にもコンビニにもスーパーにも公園にも彼女の姿はなかった。もしかするともう家に戻っているかもしれない、そう思って一度アパートへ戻ったが、やはり部屋の中に彼女はいなかった。
そしてふと、枕元にある目覚まし時計を見た。そこには小さな白い紙があった。手にとって、僕は混乱した。
「さようならをする時が来ました。今までありがとう。どうか貴方は変わらないでいてね。」
何度読み返してもそこにある文章は変わらない。彼女のいうさようならをする時というのはどういうことなのだろう。僕らはあんなにも穏やかな日々を過ごしてきたのに、彼女は幸せそうに笑っていたのに、どうして。

 

彼女は二度と戻ってこない。そんな気がして、僕は生まれて初めて「孤独」というもの、「喪失感」というものを感じた。それは冬の寒さよりもずっと冷たく、まるでずぶずぶとナイフで刺されているような、苦しいものだった。
そしてしんと静まり返った部屋で、僕は泣いた。泣くことしかできなかった。彼女の声や踊る姿が頭の中でループし、あの美しい姿をもう二度と見ることが出来ないのだと、泣き崩れた。

 

僕はもしかすると、彼女が僕と同じように幸せな気持ちでいると、勘違いをしていたのかもしれない。彼女はきっと今もこの先も彼女のままでいるのだろう。ならば僕は僕らしく生きて行くしかなかった。突然のさようならは、彼女が彼女であるために必要なことだったのだのかもしれない。

 

そうして僕は、涙を流しながら煙草に火をつけた。