深夜新書

深夜。コンビニへ向かう足取りはふわふわと軽い。何を買う予定もなく、ただ夜風をきって行く。夏が来た。大嫌い。夏なんか大嫌い。そう思いながら、夏の香りを深く吸う。

 


コンビニの明かりはやけに眩しくて、私は目を細めた。店員はみんな気だるそうだ。私はお気に入りのパンとアイスココアを手に取って、レジで煙草を一箱頼んで、コンビニを出た。買ったばかりの煙草に火をつけてゆっくり歩き出す。「歩き煙草なんてみっともない。」母親の言葉を思い出す。

 


帰り道の途中、真っ黒な野良猫が私の前に現れた。私は慌てて携帯を取り出し写真を撮ろうとしたが、逃げられてしまった。あーあ。声に出して、再び歩き出す。

 


アパートに着くと、部屋の中はクーラーが良く効いていて寒いくらいになっていた。そばにあった薄手のカーディガンを羽織る。買ってきたパンにかじりつきながら撮り逃した黒猫のことを思った。黒猫が前を通ると縁起が悪いなんて言うけど、私は真っ黒な猫が一番好きだ。どことなく凛としていて、逞しくも見えるあの子達が。

 


寂しい夜は外へ出て風を浴びよう。悲しい夜は声を出して泣こう。苦しい夜は狂ったように踊ればいい。君の明日が、私の明日が、明るくなる日が来なくとも。

そこのあの子の夏休み

窓の外はジリジリという音が聞こえてくるような快晴だった。でも私は部屋の中で膝を抱えている。外には出たくなかった。学校なんて行きたくなかった。あそこは煩い。あそこは怖い。あそこは危険だ。

 


いつからこんな風に思うようになったのか、もう思い出せない。随分と長い間、部屋の隅で膝を抱えている気がする。けれど私は、気づいている。全く形の分からない希望にすがろうとしている自分のことに。けれどそんな自分は恥ずかしくて、私はいつまでも頑なに膝を抱いていた。

 


いつか誰かがなんて、夢みたいな話だと思う。いや、夢そのものだ。誰かが救ってくれる未来なんてない。期待しちゃいけない。希望を抱いてもいけない。私みたいなやつなんかに、神様とやらは手を差し伸べたりしない。分かっているのに、私は時々祈ってしまう。私も笑いたい。こころの底から笑いたい。

 


どこで立ち止まったのだろう。どうして動けなくなってしまったんだろう。毎日毎日考える。答えはすぐに見つかるのに、私は見えないふりをする。逃げるのは楽だった。でも逃げている最中は地獄だ。それでも、あの恐ろしい笑い声の中に独りきりでいるよりはマシか。そう思う私は、おかしくなってしまったのかもしれない。

 


ある日の夜、窓を開けてみたらぬるい夜風に髪が靡いた。夏の始まりに顔をしかめながら、私は冷たい水を飲む。液体が喉を通って行くのがわかった。まだ生きている。そう思った。

欠けた愛を探してる

友人と喫茶店でコーヒーを飲みながら、友人の話す愛についてを聞いていた。友人は愛しているならこうするはずだ、愛しているならあんなことはしない、と少しご立腹な様子で熱弁している。私はそれをただウンウンと聞いていた。頭の中ではくだらないと思っていた。だって愛しているならこう、なんて、そんなの、ただの押しつけがましい欲望だ。つまらない理想論だ。

 


散々話した友人はどこかスッキリした様子で、手を振り帰っていった。私は1人になった帰り道で考える。愛ってなんだろう。そんなもの、存在するのだろうか。そして一度だけ、愛していると信じた男のことを思い出した。

 


最寄り駅を降りたところで降り出した雨に、私は嫌な顔をしながら傘を差す。雨は嫌いだ。特に今日は気分が悪い。思い出してしまった男が私のそばから離れていった日も雨が降っていたから。

 


アパートにつき、私はため息をひとつ吐いた。履きなれないヒールを玄関に放り、少し洒落た服を脱ぎ捨ててベッドの上に寝転がる。愛についてなんて答えのないものを考えたくはないのに、私の頭の中はそのことでいっぱいになってしまっていた。枕に顔を埋めて考える。愛って何、愛ってどんなもの、愛してるってどんな気持ち。

昔の男の顔がよぎる。とうに忘れたはずだった人。私は仕方なく振り返ってみる。私はあの男を愛していると信じて、全てを捧げた。時間も心も身体もすべて、あの男のためにあると思っていた。でも違った。それは思い込みに過ぎなかった。結局、私は男を愛してなどいなかった。

結局私もくだらない欲望を持っていたんだ。だって許せなかったから。夜遅く帰宅した私の目の前で、知らない女が私の愛する人に抱かれていたことを。

 


あのとき、驚いた2人はしどろもどろに何かを説明していたけど、私の耳は既に閉じていた。憎しみみたいな感情があるならきっとあの時の私はまさにそんな感情に溺れたんだろう。

2人を部屋から追い出して、私は煙草に火をつけた。それっきり、男は帰ってこなかった。そう、それっきりだ。

 


愛なんて、愛しているなんて、そんなもの簡単に裏返る。私はあの男のおかげで望んでもいないことを学んだ。無償の愛とか、永遠とか絶対とか、そんなものは存在しない。いつかみんな溶けて消えていく。消えていくんだ。

 


顔を埋めた枕が少し濡れて、私は顔を上げた。

答えのないクイズ

途端に先のことが見えなくなった。どうやって生きていけばいいのか、何のために生きているのか分からなくなった。きっかけと呼べるようなものは思いつかない。漠然とした不安と焦りが募っては消えまた生まれる、その繰り返しの中で身動きができなくなった。息をするのも辛かった。誰かに助けを求めることも、うまくいかない。だって私の周りは「何のために生きているのか」なんて、そんなこと考えちゃいないから。誰にだって悩みはあると頭で分かってはいても、私には周りの人間が皆楽しそうに生きているように見えた。本当に誰も気付いていないのか、どうして私は気付いてしまったのか、そんな疑問がチラついては消えた。

 

私は暗い部屋で膝を抱えて泣くことしか出来なかった。そのうちに涙も枯れて、やって来たのは孤独だった。救いようのない孤独は私の首を絞めた。苦しくて手を伸ばしても、どこにも誰にも届かない。私はかかってはいけない罠にかかってしまったのだと思った。一度かかった罠からは抜け出せない。私は答えのないクイズを解かされる。どうやって、何のために、生きているのか。


教えてくれと叫んでも、声一つ返ってはこなかった。

古い記憶は美化されて、春が来る

みっともないセックスだったかも知れない。

お互い胸の中で凍っていた何かを、溶かし合おうとするようなセックス。本能に任せて貪りあった。若くて痛々しくて目も当てられない。そんなセックスを、私たちはした。
本当の別れ際のことだった。全くの赤の他人になる、直前。あの日のことを私はとてもよく覚えている。忘れられない記憶。感覚。感情。あれは私たちの日々の凝縮みたいなひと時だった。

あの日から何年経っただろう。今の私には、あの日のセックスがとても大切で神聖な行為だったと思えてならない。あんなに何度も体を重ねてきたのに、あの日の数十分が全てだったとさえ思える。いや、本当に全てだったのかも知れない。あのひと時がなければ、きっと今の私はない。そんな確信さえ持てた。
私たちはあの日確かに、長い長い冬のトンネルから抜け出したのだ。

あの頃の嘘を無かったことにしたくて

愛してる、大好き、ずっとそばにいるよ。全部全部嘘だった。私の口をついて出た言葉は皆んな嘘だった。そんな嘘を全て信じていた君はもういないし、吐いた嘘は嘘にならないし、私の中には後悔だけが残ってる。もう嘘はつかないと心に決めて新しい人と始めた恋愛は、悲しいものだった。私は本当のことしか言わなかった。愛してるには有難うを、大好きには嬉しいを、ずっとそばにいるよにはそうだったらいいなを。彼は満たされないと言って去って行った。私はどうすれば良かったのと泣いても、言葉をかけてくれるような人は残ってなかった。私はまた一人になった。嘘も本当も誰かを傷つける。八方塞がりだ。私は暗い穴に落ちていくような感覚を、仕方なく抱き締めた。

彼は全てにおいて、良くも悪くも若々しかった。間も無く四十になろうとしている私や夫とは大違いだった。その小麦色の肌はピンと張りが良く、私を抱きしめる時の力は強く逞しく、何処へ行くにもエネルギーがあり、何より時々姿を見せる葛藤や痛みが私には輝いて見えた。

 

私が彼に恋をしたのは去年の今頃、春が少し頭を出し始めた頃だった。同じ職場の後輩だった彼の指導係についた私は、彼と長い時間を過ごした。その中で色々な話をするうち、私は彼に惹かれていった。彼のエネルギーに魅力を感じた。相手にされないと思い込んでいた恋は望む形ではないにせよ、成就した。

 

それから私たちは時々体を重ねる関係になった。私に夫がいることを知りながら、彼は私を強く荒々しく、けれど優しく、抱いてくれた。夫には出来ないことだった。私はまだ自分が女であることを知り嬉しかった。そうして、まるで溺れるように、私は彼との情事にのめり込んでいった。

 

いつも帰りの遅い夫は、私が夫より先に帰宅していれば何の疑問も持たずにいてくれているようだった。そのことには安堵した。私は別に夫が嫌いなわけでも、別れたいと思っていたわけでもない。なので時々罪悪感に襲われたが、私は止まれなかった。むしろ、刺激的な日を過ごした日は夫との穏やかな時間が一番安心した。正直に言って、こんなにも満たされた生活はないと思っていた。

 

打つ気のなかった終止符を打ったのは、しかし私だった。きっかけは彼の葛藤だった。彼は、私が夫に隠れて自分との関係を続けていることに悩んでいた。自分を選んで欲しいと望んでいた。
私は彼の前で何度か夫の話をしたことがある。それが今でも思い出されて苦しいのだと、彼は言った。
「秘密の関係だっていいじゃない。魅力的よ。」
私はそう言って誤魔化そうとしたが、彼は揺れなかった。
「隠し事が出来ないのね。」
私が言うと、彼は少し怒った様子で、
「君じゃないか、隠し事が下手なのは。」
と言った。
「君を抱ける男がもう一人いるなんて話こそ、隠しておいて欲しかったよ。」
彼はそうして俯いた。私は不謹慎ながらもそんな台詞に喜びを感じていたが、ぼんやりと、潮時も感じていた。ひどく寂しい気持ちになったが、これ以上はもう、楽しめないと分かってしまった。

 

私たちは元の関係に戻ることにした。会社の上司と部下、という、つまらない関係に。彼は私と対する時、初めこそ苦しそうな顔をしていたが、徐々にそれも無くなっていった。

 

私は多少の退屈さを感じながら、いつもの日常へと、戻った。