日記

嘘つきの君にはわからないよ。僕の愛情の形なんて。君の愛してるはただのおうむ返しだろう。僕がいくら本気で愛したところで、君が返してくれるのは見よう見まねの愛情だ。誰かの受け売りか、小説や映画の真似か、それは分からないけれど、君はさも本物のようにそれを主張する。そんな君が僕は嫌いだ。けれど君を前にした時の僕はどうしたって君を愛していて、僕はそんな自分が情けなくなる。惨めな気持ちになる。けれどどうにも出来なかった。僕が君を愛してしまった時点で、僕らの恋愛は完結してしまったのだから。

 

僕は今日も君を愛してる。君は今日も嘘をつく。こうして僕らどこまで行けるのだろう。
見えないようで見える、遠いようで近い、終わりというやつから目を逸らして、僕らは繋がったふりをしながらこの道を歩いていく。

逃げ癖

本当に強い人というのは、頼るべき時に誰かを頼れる人間だと、どこかで教わったことがある。私はその時、ならば私は非常に弱い人間なのだろうと思った。強い人間になりたかったが、しかし私には誰かを頼るということがどうにも難しく感じた。だって頼られる側はきっと、私の中のどうにもならない叫びに困ってしまうだろうから。誰かを困らせるのは、とても怖くて、私には、耐えられなかった。それは、頼れない苦しさを大きく、大きく上回っていた。

 

そんな私に、つらいときは、泣いていいよ。と、貴方は言うけれど、そんなことを言われたら余計に泣けなくなってしまう。優しく見えて、酷な台詞。貴方の口から出る言葉たちはいつもそうだ。私は優しすぎる貴方に甘えられずどんどん弱くなっていく。貴方のせいとは言わない。だって私が貴方の前で泣けないのは、私が泣かないように気をつけているせいだから。

 

本当は分かっている。結局のところ、私は自分の中にある醜い部分を見られることで、嫌われたくないのだ。こんな風に思うようになったのがいつのことかはもう思い出せない。気付けば嫌われることをひどく怖がるようになっていた。
貴方はどんな私を見ても、私を捨てずにそばで笑ってくれるのだろうか。貴方が私に優しくするたび私はそんなことを思った。でも聞くことはしなかった。貴方はきっと、大丈夫だよと言うだろうから。でもそんな言葉、あてにならないのだ。

 

優しすぎる貴方と、それに応えられない私は、いつまでも満たし合えないままでいた。私は段々とそのことに耐えられなくなっていった。私はいっそ捨てられてしまってもいいような気がして、彼を試してみたくなった。

 

けれど、そんな試みは上手くいかなかった。私は、泣けなくなっていた。ちょっとした弱音すら、出てこなかった。いつの間にか私は、笑っているだけの人形のようになってしまっていた。

 

つらいときは、泣いていいよ。
貴方の言葉がループする。
今こそ泣いてしまいたかった。
それでも、私の目から涙が出ることはなかった。

追い風

あの人は僕の目の前で屋上から飛び降りた。
穏やかな歓談の後のことだった。

 

僕らは精神病院に入院していた。二人とも、自殺未遂が原因だった。あの人は飛び降りに失敗して、僕は首吊りに失敗して、それぞれ病院に送られた。同じ病室になった僕らは、次第に親しくなっていった。あの人は僕の話を、僕はあの人の話を、引き出しから互いに一つ一つ取り出して見せ合うように毎日話をした。

 

僕と話をしている時、あの人はいつも笑っていた。その笑顔は明るく朗らかに見えた。きっとこの人はここに来る前もそうやって毎日笑って、けれどもその反対側で行き場のない何かを抱え込んでしまったんだと、僕は思っていた。何故ならあの人は夜中になると決まって泣いていたから。僕は堪らなくなっていつも話しかけようとしたけれど、話しかければあの人は無理をして笑う気がして、話しかけることは出来なかった。

 

ある日、あの人は僕を屋上へ誘った。病院のルールでは出入り禁止の屋上へ、あの人はどうしても行きたいのだと言った。


屋上には、少し強い風が吹いていた。追い風だった。僕らはいつものように互いの話をしていた。穏やかな歓談。ひとしきり話が済むと、あの人は疲れたねと言って立ち上がった。そして、「あんたは生きな。」と言い、追い風に乗って屋上のフェンスに駆け寄り勢いよく、飛び降りた。

 

そのあとのことは、あまり覚えていない。あの人がフェンスをよじ登り飛び降りた時の風景、それだけが生々しくまぶたの裏に映るだけだった。

 

僕は、どんなに苦しくてももう死ぬことだけは選ばない。だって「あんたは生きな。」ってあの人が言ってたんだ。もういないあの人の言葉を僕は守り続ける。理由なんてない。

 

ただあの人がそう言ったから、それだけだ。

さよなら

「縁があったらまた会いましょう?」
そう言って彼女は山手線の改札を抜けていった。僕は手を振って見送ったが、彼女は振り返ることなく人の渦の中に消えていった。

 

僕らは一年という短くも長い年月を一緒に過ごした。そこには色々な思い出が詰まっている。桜並木の真ん中を歩きながら初めて手を繋いだこと、暑い夏の日に彼女が着ていたワンピースの柄が可愛かったこと、夕陽の映える日にくだらないことで喧嘩をしたこと、寒さが芯まで沁みる夜、温め合うように抱き合って眠ったこと。全て僕には宝物だった。

別れを告げられたのは、昨日の夜だった。彼女は夕飯の支度をしていた。その後ろ姿は愛らしく、僕は抱きしめたいのを我慢しながらそんな彼女の背中を見ていた。
「ねえ、」
「うん?」
いつも僕の目を見て話す彼女が、背を向けたまま僕に話しかける。
「私、田舎に帰ることにしたの。」
彼女はきっぱりとそう言った。僕は始め、わけがわからなかった。
「どういうこと?」
僕が尋ねると、彼女はそういうことよ、と言った。
「都会に疲れてしまったの。」
「疲れたって、それで田舎に帰るのかい?」
「そうよ。私にはきっと生まれ育った場所で暮らす方が向いているの。」
料理を順々にテーブルへ並べながら、伏し目がちな様子で彼女は続ける。
「貴方と居るのは楽しいけれど、貴方がいない時の私は窮屈で堪らなくなる。」
僕は黙って彼女の話を聞いていた。
「それに疲れてしまったのよ。だから私、帰るわ。」
「もしかして、僕と別れるつもり?」
彼女は、ゆっくりと一度頷いた。まさか頷かれるなんて考えてもいなかった僕は、驚いて口を噤んだ。
「さよならしましょう。」
彼女はとうとう僕の目を見て言った。僕は頷くことも嫌だと言うこともできずに彼女の目を見ていた。
「明日の朝、この街を出るわ。」
彼女の意思は堅そうだった。それでも僕は彼女のいない生活を考えることができず、声にならない声で拒んだ。
彼女は、分かって欲しいと言って聞かなかった。結局僕らは一晩中話し合い、別れることに決まった。

 

そうして翌朝、僕は重たい彼女の荷物を持ち、彼女の少し後ろを歩いて最寄りの駅へ向かった。彼女はどこか吹っ切れたような様子で、歩く姿は軽やかに見えた。反対に僕の足取りは重く、今でもまだ間に合うのではないかと考えながら歩いていた。頭ではどうにもならないことなど分かっていたけれど、考えずにはいられなかった。

 

駅に着き、彼女は僕の手から荷物を引き受けると、そっと僕の頰に手を当てて、「有難う。」と一言言った。その手の温かさは僕の涙腺を緩ませたが、僕は泣くまいと我慢した。泣いても、もう遅い。何故なら彼女の顔は、言葉にできないほど清々しいものだったから。

 

「縁があったらまた会いましょう?」
何故そんなことを言うのかと、僕は苦しくなった。少しの期待も残さずに行って欲しかった。そんな風に言われたら、またいつか会えるのかもしれないと思ってしまう。そのいつかはいつになるのか分からないのに、それまで僕は彼女の記憶に縛られ続けるじゃないか、と。

 

振り返ることなく人混みに消えて行った彼女を、僕はしばらく見つめていた。もう帰ろう、誰かが言っている気がした。それでも僕は、その場を動けなかった。

 

しばらくして、僕はゆっくりと改札に背を向けて歩き出した。
縁があったらまた会いましょう。
そんなあてにならない言葉を、そっと、胸にしまいながら。

宛名のない遺書

14歳になった夏の日の夜。風がごうごうと窓の外で音を立てるのを聞きながら、私は誰に宛てるつもりもない遺言を書いていた。死ぬつもりだったわけじゃない。けれどいつまで生きているかも分からない。そんな風に思ってペンをとった。

 

私は便箋を前にして、思うがままに文字を連ねていった。誰に宛てるつもりもないと言った通り、私はそこに感謝や願いなどは書かなかった。ただ、私がいたということについて書き続けた。好きなもの嫌いなもの、嬉しかったこと、悲しかったこと。しかしそこまで書いて、私の手は止まってしまった。

 

私は遺言を読み直し、そこに違和感を感じた。これらが私がいたことを証明するものになるのだろうか。私は首を傾げる。私とはなんだろう。私だけにしかないものなどあるのだろうか。疑問は次々と湧いて来た。

 

私はペンを置く。14年間を生きてきた私は、私にしかないものについて初めて興味を持った。私にしかないものを手にしようなんて、考えたこともなかった。けれど心の中では何故か、それがなければいけないような気がした。

 

そして私は、遺言を丸めて捨てた。私にはまだ、続きが書けない。そう思った。私はまだ生きていかなければいけない。そうして私にしかないものを見つけなければいけない。私にしかないものなんてあるのかも分からないけれど、どうしても見つけなければいけないと思った。

 

捨てた遺言は翌日の朝ゴミに出された。
次に私が遺言を書く時は、必ず私を証明しよう。
そう思って、私は制服に袖を通し、家を出た。

これを孤独と言うのなら

幼い頃から、私が泣こうが迷おうが悩もうが、助けてくれる人はいなかった。私は私自身でこの心を守ってやるしかないのだと理解した。母親も父親も私には「そこにいるだけ」の存在で、友人はマネキンと同等だった。恋人ができても、所詮おままごとの延長にいる人間としか思えなかった。

 

そんな期待も希望もない街を、私は17で出た。後ろ髪を引くものは一つもなかった。けれどやはり私はまだ子どもで、東京という場所に期待と希望を抱いていた。世の中には大勢の人間がいる。そんな大勢が集まる東京ならば、もしかして、と、どこかで思っていた。

 

東京という街は朝も昼も夜も明るく、生き抜く術が沢山あった。忙しなく賑やかな街々。私はここで生きていく。そしていつか、私の心を守ってくれる誰かに出逢うかもしれない。期待も希望も膨らんで、私は初めて生きていると思えた。

 

けれどそんな考えは甘かった。私が東京に出てきて三年が経とうとしていた頃、私は思い知った。友人はマネキンどころかその存在さえ怪しく、恋人たちはどの人間もおままごとすらままならない。東京も故郷と同じだった。いや、それ以上だ。何せ私はこの街に、期待と希望を連れてやってきたのだから。私は酷く裏切られた気持ちでいた。
しかしそれでも私は、強くあろうとした。どこへ行っても駄目ならばらやるべきことは同じだ。この東京という街でも、私は一人で生きてやる。
もう、そう覚悟するしかなかった。

 

覚悟を決めてから、私は、何のために故郷を捨てたのだろう、何が欲しくてこの街にやってきたのだろう、と考えるようになった。もう思い出せなかった。きっとあったはずの意味や願いはすっかり埃をかぶってしまっていた。

 

そんな日々の中のとある夜。私は一人でバーに立ち寄った。然程酒には強くなかったが、人のいる場所で酒が飲みたかった。家で一人飲む酒は余計なことを考えてしまってあまり美味しくないから。

しばらくして、私も程よく酔ってきた頃、私と同じように一人でバーの扉を開けて入ってきた女性が、私と一つ席を空けて座った。横顔からだけでも美しさの香る、魅力的な女性だった。
女性は常連なのかマスターと他愛ない世間話をしながら、強そうな酒を飲んでいる。
「それは困ったものですね。」
「ずっと一人で生きてきた、なんて言うのよ。決してそんなはずはないのに。」
私はつい聞き耳を立ててしまった。女性の言葉がまるで私を指しているような気がしたからだった。
「それは、可哀想な人ですね。」
マスターは言う。
「マスターは優しいのね。でもまるで誇るように言うのだもの。驚いたわ。」
「その男に、あなたは何と言ったんですか?」
女性はグラスに一口、口をつけてから言った。
「つまるところ、愛されたいのでしょう?って。」

私は何かを鷲掴みにされたような感覚を覚えて、急いで店を出た。走ってアパートに戻り、呼吸を整えながら考える。愛されたいなんて一度も思ったことはなかった。けれどこの締め付けられるような感覚は何なのだろう。私がしてきたことの全ては、愛されたいがためだったのだろうか。そんなことはないはずだった。一人で生きてやると強く覚悟した。確かに一人で生きてきたはずだった。他人が自分に何かしてくれるなんて、ましてや愛してくれるだなんて、絶対に起こり得ないことだと思ってきた。そして私はそれを受け入れたはずだ。だからこの生き方を選んだんだ。自分で選んだというのに!

 

深夜、私は眠ることができずにいた。
あのバーに居た女性が私に言う。

 

「つまるところ、愛されたいのでしょう?」

 

私は、一人ベッドの中で泣いていた。けれどもやはり、そんな私の心を守ってくれる誰かはいないままだった。

土に還れば

私たちは毎日、その日の中で一番印象的だった話をしながら夕食を食べる。
「今日はどうだった?」
「昼に食べたオムライスがひどく不味かったな。」
彼は顔をしかめ首を横に振りながらそう言った。
「結花はどうだった?」
私はこの話が出来るのをずっと待っていたのと言って、丁寧に言葉を選びながら彼に話して聞かせた。
「小さい花の上で、蝶が死んでたよ。」
「どんな蝶?」
「黒と赤の羽を持った蝶。」
私はその蝶の羽がとても美しかったことをとくとくと説明した。そうしてそんな蝶が死んでしまっていたことを嘆いた。
「きっと、疲れたんだな。」
「何に?」
私が尋ねると、彼は言った。
「飛ぶことにだよ。」
「私たちが歩くのに疲れるように?」
「いや、少し違うな。」
彼はしばらく考えて、
「人間が生きることに疲れてしまうように、だ。」
と言った。私は納得した。きっとあの蝶には、美しすぎる羽が重たかったのだろうと思った。重い羽を必死ではたつかせ、やっと辿り着いた小さな花の上で疲れて眠るように、死んだのかもしれない。そう考えてみたら、あの蝶の死は嘆く必要のないものかもしれなかった。

 

「あとでその蝶を土に埋めてあげようか。」
彼は言った。
「まだ眠っているかな。」
「きっと。」

私たちは夕食を終えると、私の案内であの蝶の元へと向かった。蝶は、まだ小さな花の上にいた。
「本当に綺麗だ。」
彼は蝶の姿を見て言う。私たちは蝶の羽が崩れないようにそっと蝶を手に乗せ、蝶が最期を迎えた花と一緒に土に埋めた。
「もしかしたら、ここには新しい花が咲くかも知れないな。」
「どうして?」
「あんなに美しい蝶が土に還るんだ。今度はきっと花を咲かす。そう思わない?」
私は頷いた。
「あなたの言う通り、きっと綺麗な花だね。」
私たちはその場を後にした。

 

次の年、蝶を埋めた場所には、とても美しい花が咲いていた。