さよなら

「縁があったらまた会いましょう?」
そう言って彼女は山手線の改札を抜けていった。僕は手を振って見送ったが、彼女は振り返ることなく人の渦の中に消えていった。

 

僕らは一年という短くも長い年月を一緒に過ごした。そこには色々な思い出が詰まっている。桜並木の真ん中を歩きながら初めて手を繋いだこと、暑い夏の日に彼女が着ていたワンピースの柄が可愛かったこと、夕陽の映える日にくだらないことで喧嘩をしたこと、寒さが芯まで沁みる夜、温め合うように抱き合って眠ったこと。全て僕には宝物だった。

別れを告げられたのは、昨日の夜だった。彼女は夕飯の支度をしていた。その後ろ姿は愛らしく、僕は抱きしめたいのを我慢しながらそんな彼女の背中を見ていた。
「ねえ、」
「うん?」
いつも僕の目を見て話す彼女が、背を向けたまま僕に話しかける。
「私、田舎に帰ることにしたの。」
彼女はきっぱりとそう言った。僕は始め、わけがわからなかった。
「どういうこと?」
僕が尋ねると、彼女はそういうことよ、と言った。
「都会に疲れてしまったの。」
「疲れたって、それで田舎に帰るのかい?」
「そうよ。私にはきっと生まれ育った場所で暮らす方が向いているの。」
料理を順々にテーブルへ並べながら、伏し目がちな様子で彼女は続ける。
「貴方と居るのは楽しいけれど、貴方がいない時の私は窮屈で堪らなくなる。」
僕は黙って彼女の話を聞いていた。
「それに疲れてしまったのよ。だから私、帰るわ。」
「もしかして、僕と別れるつもり?」
彼女は、ゆっくりと一度頷いた。まさか頷かれるなんて考えてもいなかった僕は、驚いて口を噤んだ。
「さよならしましょう。」
彼女はとうとう僕の目を見て言った。僕は頷くことも嫌だと言うこともできずに彼女の目を見ていた。
「明日の朝、この街を出るわ。」
彼女の意思は堅そうだった。それでも僕は彼女のいない生活を考えることができず、声にならない声で拒んだ。
彼女は、分かって欲しいと言って聞かなかった。結局僕らは一晩中話し合い、別れることに決まった。

 

そうして翌朝、僕は重たい彼女の荷物を持ち、彼女の少し後ろを歩いて最寄りの駅へ向かった。彼女はどこか吹っ切れたような様子で、歩く姿は軽やかに見えた。反対に僕の足取りは重く、今でもまだ間に合うのではないかと考えながら歩いていた。頭ではどうにもならないことなど分かっていたけれど、考えずにはいられなかった。

 

駅に着き、彼女は僕の手から荷物を引き受けると、そっと僕の頰に手を当てて、「有難う。」と一言言った。その手の温かさは僕の涙腺を緩ませたが、僕は泣くまいと我慢した。泣いても、もう遅い。何故なら彼女の顔は、言葉にできないほど清々しいものだったから。

 

「縁があったらまた会いましょう?」
何故そんなことを言うのかと、僕は苦しくなった。少しの期待も残さずに行って欲しかった。そんな風に言われたら、またいつか会えるのかもしれないと思ってしまう。そのいつかはいつになるのか分からないのに、それまで僕は彼女の記憶に縛られ続けるじゃないか、と。

 

振り返ることなく人混みに消えて行った彼女を、僕はしばらく見つめていた。もう帰ろう、誰かが言っている気がした。それでも僕は、その場を動けなかった。

 

しばらくして、僕はゆっくりと改札に背を向けて歩き出した。
縁があったらまた会いましょう。
そんなあてにならない言葉を、そっと、胸にしまいながら。