追い風

あの人は僕の目の前で屋上から飛び降りた。
穏やかな歓談の後のことだった。

 

僕らは精神病院に入院していた。二人とも、自殺未遂が原因だった。あの人は飛び降りに失敗して、僕は首吊りに失敗して、それぞれ病院に送られた。同じ病室になった僕らは、次第に親しくなっていった。あの人は僕の話を、僕はあの人の話を、引き出しから互いに一つ一つ取り出して見せ合うように毎日話をした。

 

僕と話をしている時、あの人はいつも笑っていた。その笑顔は明るく朗らかに見えた。きっとこの人はここに来る前もそうやって毎日笑って、けれどもその反対側で行き場のない何かを抱え込んでしまったんだと、僕は思っていた。何故ならあの人は夜中になると決まって泣いていたから。僕は堪らなくなっていつも話しかけようとしたけれど、話しかければあの人は無理をして笑う気がして、話しかけることは出来なかった。

 

ある日、あの人は僕を屋上へ誘った。病院のルールでは出入り禁止の屋上へ、あの人はどうしても行きたいのだと言った。


屋上には、少し強い風が吹いていた。追い風だった。僕らはいつものように互いの話をしていた。穏やかな歓談。ひとしきり話が済むと、あの人は疲れたねと言って立ち上がった。そして、「あんたは生きな。」と言い、追い風に乗って屋上のフェンスに駆け寄り勢いよく、飛び降りた。

 

そのあとのことは、あまり覚えていない。あの人がフェンスをよじ登り飛び降りた時の風景、それだけが生々しくまぶたの裏に映るだけだった。

 

僕は、どんなに苦しくてももう死ぬことだけは選ばない。だって「あんたは生きな。」ってあの人が言ってたんだ。もういないあの人の言葉を僕は守り続ける。理由なんてない。

 

ただあの人がそう言ったから、それだけだ。