先生

先生は、昼間にしかやってこない。授業がない時にふらりとやってきて、毎回初めての部屋に来たような顔をしてコーヒーを飲む。
私は先生が来る前に掃除を済ませ洗濯物を片付ける。いつもより一人分多い昼食を作っておく。普段から食の細い先生のためにサラダは必ずつける。

ドアのチャイムが鳴る。もう黙ってドアを開けてくれたらいいのにと思うけれど、先生はそんなことはしない。私は「いらっしゃいませ。」と言ってドアを開け先生を招き入れた。
「どうも。」
先生は少し遠慮がちに片手をあげる。
「こんにちは。」
私たちはいつも他人行儀だった。私はそれが気に食わなかったが、先生がその方がいいと言うので仕方なかった。先生は眼鏡の奥で細く笑う。
「コーヒー淹れますね。」
「有難うございます。」
私は先生を想って丁寧にコーヒーを淹れる。先生は私の淹れたコーヒーが一番美味しいと言ってくれるから。
「いただきます。」
先生は静かな人だ。コーヒーを飲む時も、食事をする時も、歩いている時も座っている時も、ほとんど音を立てない。私は先生のそういう一挙手一投足が好きだった。

 

時計の針が12時を指し、私は用意しておいた昼食をテーブルに並べて行く。先生は手を合わせて丁寧にお辞儀をして、いただきますと私の料理に手を伸ばしていく。
「貴女の料理はいつも美味しいですね。」
「頑張ってるんですよ。先生のために。」
「光栄です。」
こんな風に少しずつ私は好意を伝えるけれど、先生はそんな私の言葉をいつも綺麗に流してしまう。

 

昼食を終え、私たちは少し他愛のない話をした。先生はぽつぽつと私の話に相槌を打った。
そうしてしばらく経った頃、先生はゆっくりと私を抱き寄せた。私はこの時をいつも待っている。先生は温かい。そして落とすようなキスをする。まるでチョコレートのようなキス。甘くて優しくて少し苦い、そんなキスだ。
そうして私たちはお互いを労わるようなセックスをする。いつも静かな先生が少し乱れるのを感じて、私は嬉しくなる。その反対側で、これが私の前だけだったらいいのにと思った。先生には奥さんと子どもがいる。奥さんとのセックスもこんな風なのだろうか。そう考えると涙が出そうになるけれど、私が泣いたら先生はもう会いに来てくれないような気がして、私は涙をぐっと堪えた。

 

事を終えると、先生は私に服を着せてくれる。私はずっと裸のまま先生と抱き合っていたいけれど、風邪を引きますと言って、私の心の内に知らんふりをする。
夕方、先生が帰る支度をし始めた。私は途端に淋しくなる。いつものことなのに、いつも私は淋しくなってしまう。
「もうお帰りになるのですか?」
先生はそんな私の言葉に静かに頷いて、
「はい。今日は早く帰ることになっているので。」
と言った。きっと家族との約束なのだろう。支度が整うと、先生はそっと立ち上がって、玄関に向かった。私は先生の背中を見つめながら、たった一日でもいいから一日中側にいて欲しいと思う。けれどそんなわがままを言って先生を困らせるのが嫌で、結局部屋の中から先生を見送った。

 

先生のいなくなった部屋で、私は一人、考える。この関係はいつまで続くのだろうと。いつか終わりが来た時、私はどうするのだろうと。考えれば考えるほど、泥沼にずぶずぶと飲み込まれるような恐怖があった。そして、先生の気持ちが気になった。先生は私をどう思っているのだろう。どうしてこんな風に時々私を抱いてくれるのだろう。私がわがままを言わない、都合のいい女だからだろうか。私は試してみたくなった。夜も21時を迎える頃、私は初めて先生の携帯に電話をかけてみた。願うように、祈るように、先生が電話に出てくれるのを待った。私だって、いつまでもいい子じゃいられない。それでも、ただ一言だけでいい、家族との時間の中に私という存在を意識して欲しかった。


先生は、電話に出てくれなかった。多くを求めていたわけじゃなかったのに。せめて先生の口から、おやすみと言われたかった、それだけなのに。

 

翌朝、先生が家を出たであろう頃、先生からの着信があった。私はその電話に出なかった。もう遅い。私は分かってしまったのだから。私が先生の中に居られる時間は、限られていることを。私はもうどうでもよくなっていく自分に、笑った。